尾張国 鈴置山国分寺縁起
尾張国 鈴置山国分寺縁起
国分寺(金光明四天王護国之寺)はおよそ一三〇〇年前、聖武天皇の勅願によって日本各国の国府所在地に建てられ、鎮護国家祈願の役割を担うために国土安穏・五穀豊穣を祈った。
尾張国分寺は稲沢市矢合町椎ノ木に建てられ、東西およそ150m、南北240m以上の境内地を持ち、金堂、五重塔(三重塔)など当時の建築技術の粋を集めた伽藍が建ち並んだ。しかし、度重なる洪水や風水害にさらされ、『日本紀略』には元慶八年(884)八月二十六日以前に出火によって大半が焼失した記事が見られる。その後、尾張国最古の寺院願興寺が尾張国分寺として転用されたこともあるが廃絶。その間、延喜-延長年間(901-931)に遍歴遊行して浄土教をひろめた空也が二十歳のころ尾張国分寺において剃髪出家している(「空也誄(るい)」「六波羅蜜寺縁起」)。
明治十九年円興寺を国分寺に改称し現在に至っている。円興寺と尾張国分寺の関係は六五〇年前にさかのぼる。
ところで、円興寺の開山は覚山和尚、また鎌倉建長寺の南浦紹明(円通大応国師)の高弟で、入唐して柑橘苗の接木の技術を矢合に伝えた柏庵宗意と諸説ある。こうした複数の説が生じた背景には、柏庵宗意が、嘉暦八年(1328)尾張国分寺の再興を図り国分寺釈迦堂を椎ノ木に建立したこと。そして柏庵宗意の弟子で妙興寺の開山滅宗宗興(円光大照禅師)が円興寺で剃髪出家している事実(『妙興寺文書』)によるものと思われる。
ともあれ、永和元=天授元年(1375)、滅宗宗興は柏庵宗意建立の国分寺釈迦堂の保護を円興寺に依頼している。
以来、円興寺は長きにわたって国分寺釈迦堂の維持、管理を担ってきた。そこで寺号改称を国に申請し、明治十九年に許可された。こうして尾張国分寺は現在の鈴置山国分寺に受け継がれていったのである。
現在の鈴置山国分寺境内地は、戦国時代橋本大膳が自らの追善のために居城を円興寺に寄進した土地である。現在地に円興寺を字一本松からうつす際に、椎ノ木の国分寺釈迦堂も同時に移築された。
鈴置山国分寺には、国分寺釈迦堂の本尊と伝えられる釈迦如来坐像(像高102㎝)を含む釈迦如来坐像二躯、伝熱田大宮司夫妻坐像二躯、伝覚山和尚坐像の五躯(国指定重要文化財)が伝わっている。